鎌倉殿の13人 ゆかりの地を訪ねる 9 その2 下曽我の街並み 曽我兄弟
昨日の続きです。
小田急線「富水駅」からJR「下曽我駅」まで2kmほどの道のりを1時間ほどかけて曽我にやってきました。
もちろんここで有名なのは曽我の梅林です。例年2月になるとここで「小田原梅まつり」が開催され、多くの人々で賑わう。3万5千本の白梅の上に富士の姿が浮ぶのは確かに絶景です。
でもこの時期にここを訪れる人は少ない。
下曽我駅に着きました。
こちらは駅前にある曽我乃正栄堂さんです。100年以上この地で和菓子屋を営んできた老舗で「曽我せんべい」と「五郎力餅」は神奈川の銘菓として知られています。
この下曽我の駅前についてひとこと言わせていただくなら、間違いなく「レトロ散歩」ファンとして見逃せないとことです。昭和の良き時代を今に残す素敵な場所と言い切れます。
梅まつりのないこの時期、人口もそれなりに減少している地域でもあるので、確かに賑わいはないのだけれど街の雰囲気がどことなく暖かい。
最初に行ったのは宗我神社、曽我郷6カ村の総鎮守です。1028年に宗我の民が宗我都比古神社を創立したのがその始まりとされます。
周辺には、まるでタイムスリップしたような昔懐かしい風景がひろがっています。
曽我物語は1193年に源頼朝が富士の裾野で行った大規模な巻狩りの際に、兄・曽我十郎祐成と弟・五郎時致が父の仇である工藤祐経を討ち果たした伝説をもとにしています。
事件は伊豆にある工藤祐経の領地をめぐる、工藤祐経と曽我兄弟の祖父である伊東祐親の所領争いに始まります。この争いの中で曽我兄弟の父・伊東祐泰は工藤祐経によって殺されてしまいます。
その後、曽我兄弟は母の再婚相手の曽我祐信のもとに預けられましたが、彼らは静かに闘志を燃やしながら成長し、兄十郎が22歳、弟五郎が20歳の時、仇討ちを遂げました。
事件ののち、兄十郎はその場で討ち取られ、弟五郎は捕縛されて鎌倉へ護送される途中、鷹ヶ岡で首を刎ねられたと歴史は伝えています。
この話はよく知られた仇討ちで、浄瑠璃や歌舞伎などで頻繁に演じられ、後世に伝えられています。
曽我兄弟の名が今に伝えられるのは、こういった後世の芸能による伝承の影響が大きいです。
この石は「五郎の沓石」と呼ばれ、曽我五郎が足を患った際、自分の体力が衰えていないかと心配になって、試しにこの石の上で踏ん張ったとされる石です。伝承には「それで石が足形に窪んでしまった」と伝えられますが、それにはちょっと無理があるかもしれません。
ただこのスポットは、足の怪我などの無事な回復祈願スポットとしてよく知られる場所ではあるそうです。
こちらは小高い丘の上にある場所で、曾我兄弟の養父である曽我太郎祐信の屋敷があったところと云われるところです。
曾我氏はこの事件の後も幕府に対して忠誠を誓うものとして、この地に所領を代々安堵されることになります。ただ1559年の14代曽我甚五郎信正のときに北条氏に叛いて滅亡してしまいました。
こちらは城前寺に置かれている曽我兄弟の銅像です。
こちらのお寺は1193年に兄弟の叔父の宇佐美禅師がその遺骨を持ち帰り、その菩提を弔ったのが始まりと伝えられます。境内には兄弟の供養墓のほか様々なゆかりの品がある。
こちらのお寺の正門前には仏様の像が据えられています。
もちろんそれほど古くから置かれているわけではないと思いますが、眼下に小田原の街と相模湾を見下ろし、それが曽我兄弟の思いを今に伝えているような気がしてなりません。
今回の旅の記録は記事や画像を拡充して、メインサイト瞳に四角い鰯雲の方に準備が出来UPしておきます。
但し画像のサイズは大きいので、WIFI環境などそのダウンロード環境にはお気を付けください。
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